注)以下の内容は個人的な感想であり、所属する組織の見解や法令に基づくものではありません。

2022年度に高校の国語科の科目が再編されるそうで、そのうち「論理国語」と「文学国語」の分断について心配しておられる内容だ。

恥ずかしながら、私は大学受験で国語科が一番苦労したので、今回の問題について何も言えない。

しかし、ある文章が論理的なものと文学的なものの、そのいずれかに分けられるのかという疑問は感覚としてはわかる気がする。

過去の監査業務で目にしたのだが、顧客の取締役に東大法学部からキャリア官僚になり、天下ってきた方がいた。平取締役から常務取締役、専務取締役にとんとん拍子で昇進し、ついに社長かと誰もが思っていたときに親会社から外されて子会社の社長に左遷された。人格の欠陥などなく、話題も豊富で尊敬できる方だったが、当時の社長が同じ東大法学部からキャリア官僚を経て天下ってきた人で、キャリア官僚の中でもいろいろと派閥があって、2人は対立する立場だったらしい(と会社の方から聞いた)。ああ、東大出てキャリア官僚になるような頭のいい人でも人間関係で失敗するのか、と思ったものだ。

親を見ても周りを見ても自分自身も、人間関係は難しく、文学作品でも描かれた人間関係を考えると非常に複雑で奥が深い。考えると思考は広がりそうだが、人間は感情に流されて非論理的な行動をするから「論理国語」に向かないのか、などと思う。

また監査業務で経験したが、もともと根が同じものを理屈で2つに分けようとすると、どうしても無理が出てくる。会計処理に関わる基準がそのようにできていると人によって解釈が異なり混乱のもとになる。